見ていたのに、見えていなかった
ドレッシングの瓶を、思い浮かべてみる。
油と酢は、もともと交わらないもの同士だ。
それでも、よく振ることで、
なめらかに混ざり合う。
美味しいのは、油でも酢でもなく、
混ざっている状態そのものだ。
放っておくと、また分かれていく。
それぞれの本来の姿に戻るだけとも言える。
分かれることは、自然なことだ。
だから、美味しい状態でいるためには、
時々、振らなければならない。
ある人が、家族との時間について書いていた。
普段は仕事が中心の生活。
だからこそ、特別な日には
思い切り時間もお金もかけてきた。
記念日には、少し背伸びした店へ。
プレゼントも、いつもより奮発する。
それで十分だと、どこかで思っていたそうだ。
でも、ある特別な日に家族の様子を見ていて、
少し違うのではないかと感じたという。
一緒にコーヒーを飲む時間。
今日あったことを聞く数分。
「お疲れさま」と、顔を見て言うこと。
そうした、何でもない日々のことを、
自分はどれだけ大事にしてきただろうか、と。
もう一度、瓶を振ってみる。
面白いのは、分かれ始める瞬間は、
見てもわからないということだ。
振った直後に見れば、混ざっている。
数分後に見ても、まだ混ざって見える。
でも数時間後に見ると、はっきり分かれている。
こまめに見ていれば、
「今、少しずつ分かれ始めている」
という途中の過程が見える。
たまにしか見ていなければ、
「混ざっている」から
いきなり「分かれている」に
飛んで見えてしまう。
一緒にいた年月で言えば、十分すぎるほど長い。
それでも見えていなかったものがあるとしたら、
一緒にいた時間が短かったからではない。
見ていた間隔が、粗かったからだ。
特別な日にしか意識して見ていなければ、
その間に起きていた小さな変化は、
なかったことになる。
「いつも通り」に見えてしまう。
実際には、何かが少しずつ動いていたのに。
長く一緒にいることと、
細かく見ていることは、
別の話なのかもしれない。
どれだけ長く隣にいても、
見る間隔が粗ければ、
起きていた変化はなかったことにされる。
逆に、短い時間でも、
間隔が細かければ、
見えるはずのものがある。
分かれてしまったものも、
もう一度、振れば戻る。
来年、何をするかはまだわからない。
でも、瓶を手に取ることは、
今日からできる。

クリーヴさんはじめまして!「見ていた」と「見えていた」は違うんですね..!
関係は小さな変化の積み重ねですね。
今日のひと言とか数分が、未来の信頼を育てるんだって感じました!
混ざってると思ってたので今すっごく2人のビンを凝視してます
まだ混ざってると見ているがどうだろう 不安が募ってきた